毎年、スタバの「サクラ🌸」シリーズが出ると思い出す。
ーーー東京で2年間、
救命ナースとして必死に毎日を過ごし
救命ナースとして必死に毎日を過ごし
膠原病で入退院を繰り返したのちに、
主治医からの通告
「このままだとあと3年は持たないよ。
看護師を続けたいなら、もっとゆっくり働ける病院に行きなさい」
” 無期限休養 ”という診断書をもらう。
いろんな葛藤もあったし、
まともに飛行機で帰ってこれないほど
体調は悪化していたけど、
まともに飛行機で帰ってこれないほど
体調は悪化していたけど、
北海道に戻ってからはフシギと元気に過ごせることが増えた。
道内でも大きな病院(懲りずにまた急性期( ̄∀ ̄))に再就職し、
2年間、入院せずに元気に働けたのが自信になって
ずっと諦めてた助産師の夢を追うことに☺️
入院せず休まず勤務できたことは
当時まだ病気を受け入れてなかった私にとって
ものと信じこんでいたので、
「看護師よりハードなのに」
と心配してくれてた周囲の家族や同級生に
「受かったらの話だから…」
と濁しつつ、めちゃくちゃ勉強した。
受験を決めたのは11月、、大学院の試験は1月(笑)
来年が本番のつもりで、
まずは大学院の受験を経験してこようと思って勉強した。
とは言っても負けずぎらいなので、めちゃくちゃ勉強した。
師長さんにだけは、
万が一受かったら(可能性は低いけれど)3月で退職したい旨、
仕事は今までと変わらず手抜きは一切しないことをお話して、応援していただいていた。
専門学校卒で、大卒の資格がない代わりに
職場での勤務態度や評価などの提出が必要で、お忙しい中で丁寧に書いてくださった。
勤務後に家で勉強しようとすると疲れていて寝てしまうので、
近くのスタバで出勤前には1時間、勤務後は2時間と決めて、毎日勉強した。
やりたいこと、目標が明確だったから楽しかった!
点滴につながれて
ベッドの上で寝てるしかなかったあの苦しさを。
同期がいろんな経験を積んでいく中、
自分だけが時が止まってるような苦しさを。
思い出したら、
受かる可能性なんてないとハッキリ言われても
全然辛くなくて、頑張れる状況が幸せだった

『楽しい』は無敵なんだと思う。
つい2ヶ月前に受験を決めて、
記憶力の低下を感じながらも楽しく勉強して
専門学校では経験しなかった論文を書く練習。
当日は39度の熱を出し遅刻しながらも
なぜか、受かった(笑)
※インフルの陰性を確認して行きましたw
*******
お産を取り上げるだけじゃなくて、
「女性の一生のサポートがしたい」
そう思って、もっと深く学べる大学院での
助産師課程を第一希望に選んだ。
日本初の専門職大学院。
通常の助産師学校では
「10例の分娩」を国家試験が終わっても
卒業式ギリギリまでかけて
なんとか取得する…という厳しい状況の中で、
私の通った大学院では
1年目に10例しっかり経験して、
さらに2年目には
*助産院への住み込み実習
*NICU、MFICU(母体・胎児集中治療室)
*子育て支援
*不妊治療
*海外での助産活動
(マダガスカルでの助産師活動)
*性教育
などが学べた。
有名な施設や、日本助産師会のトップで活躍されている先生たちから、直接手を添えての分娩指導を受けたり、地域・家族との関わりを間近で見せていただくことができた。
憧れてた大学生活とは違って、
とっっっっっても大変な2年間だったけど(笑)
そして結局3年後には、またドクターストップが
出て現場を退くことになったけど、
一生懸命やってきたこと
一瞬、一瞬を頭と心に刻むように学んできたこと
全力でやってきたから
自分の経験を信じることができている。
誰より熱意を持って学んだし、実践してきたと、
自分がそう信じられるような自分でいたから、
だからフィールドは変わっても
苦悩はあったけれど、やるべきことは変わらない
大切な場面で学生の関わりを受け入れてくれた
お母さん達、赤ちゃんやご家族の皆さん、
指導してくださった現場の皆さんや先生たち、
快く送り出してくれた前病院の先輩たち
(人手不足なのに、とっても喜んでお祝いしてくれました
)

みんなに直接はお返しできないけれど
関わることのできるご家族や、子ども達、
発信を見てくれる誰かに、
何かの役に立てたら嬉しいなって思う

スタバの「さくら
」が出ると

毎年振り返るりたくなる(*´꒳`*)
そんな私だから出来る性教育。
小児科医の加藤先生と
HSPの資格を持つスーパーナースたまちゃんと。
お申込みは150人を越えているそうです



お話できる場をいただけること、
とても幸せです(*´꒳`*)

紆余曲折ありーの私のセカンドキャリアの話も
どこかで開催したいな♪