ようこそいらっしゃいました。

 

これは前回の続きです

 

 

 

その頃は二軒長屋の片側に住んでいましたが、

たまたま、となりが空き家になったので、

両方とも借りることにしました。

 

これで、母が一人増えても

問題ないと思いました。

 

母との生活も、最初のころは

幸せに暮らすことができました。

 

ところが、しばらくすると母が

なんだかボケてきたのです。

 

住んでいた環境が急変したのがきっかけ

だったと、今なら想像できます。

 

しかし無知で傲慢だった私は、

母が怠け者に見えてしまい、

許せない感情に襲われました。

 

電話の対応一つできない、そんな母に

頭がおかしくなりそうでした。

 

 

あるとき、母が一生懸命作ってくれた

ラーメンを私は食べずに捨てました。

 

ラーメンどんぶりを運ぶときに、

母の指がスープの中に入ったからです。

 

熱かったろうに、こぼさないよう

必死だったのかもしれません。

 

ところが、その姿が哀れで心に刺さり

汚く感じてしまい、怒ってしまったのです。

 

殺したいほど嫌いな父と同じでした。

「そんなもの食えるか」

と言って流し台に捨ててしまいました。

 

その時の、母の悲しそうな顔は、

今でも忘れることはできません。

 

ささいなことで何度も

怒りながら注意しました。

 

あまりにも、簡単なことが

できないので、軽くですが・・

 

私の注意が頭に残るようにと、

母のほっぺたを叩きました。

 

なんて、罰当たりなことを

してしまったのだろうか。

 

母は悲しそうな顔をしていました。

 

それから、心を閉ざした母は、

ボケの進行が加速してしまいました。

 

全ては、私の無知のせいです。

 

病気に気付くこともなく、

ボケについての勉強を怠りました。

 

 

私は母が世界で一番好きでした。

そして母を尊敬していました。

 

それが、まだ50代半ばというのに、

私のせいで、おかしくしてしまったのです。

 

まだ痴呆という言葉も、

ほとんど聞かない時代でした。

 

母はアルツハイマー型の

若年性痴呆症と宣告されました。

 

治療法はありませんでした。

どんどん脳が委縮していく病気です。

 

そのうちに、大脳だけでなく

小脳も委縮してしまうと、

生命を保つ機能も失われます。

 

そのうちに父が隣に引っ越してきて、

母の面倒を見るようになったのでした。

 

 

私は母の下の世話を、

一度だけやりました。

 

気が狂いそうでした。

あるいは、狂っていたかも。

 

私はまた、他の場所に家を借り、

そこから逃げ出しました。

 

痴呆症の母を投げ出して、

父に責任を押し付けるように

逃げました。

 

父も苦悩していました。

 

そのころ家に帰っていた

弟も悲しかったのでしょう。

 

いよいよ父も面倒をみることが

できなくなりなりました。

 

私は海に近い病院の施設へ

入れることにしました。

父も、反対しませんでした。

 

母はそこで亡くなりました。

病気になってから、

6年が過ぎていました。

 

鬼のようだった父だけが、

母の介護のために

病院に通っていました。

 

時間を作っては最後まで、

あの鬼畜の父が、介護しました。

 

私は、数えるほどしか

見舞いにも行きませんでした。

 

もう私の顔も分からなくなって

いたからです。

 

病院まで、父と二人で母の遺体を

引き取りに行きました。

 

自宅で布団に寝かせると、

安らかな顔をしていました。

 

 

 

今日は・・・これで失礼します。

 

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